【コラム】「ジョーカー」という、あなたや私の物語【ネタバレ注意】


「バットマン」のヴィラン(悪役)だったジョーカーを主人公とし、その誕生を描いた映画「ジョーカー」が公開から2週連続での興行トップを記録した。

アメリカ合衆国での上映ではその内容から警備体制が増強され、現実社会への影響を懸念する声が鑑賞者からも上がっている。いったいこの映画「ジョーカー」の中で、ジョーカーは何者として描かれたのだろうか。読み解いてみる。

【これより完全なネタバレを含みます】

◆現代社会の合わせ鏡となる舞台と主人公
「ジョーカー」を見終わった時、これが自分の物語だと感じた人はどれくらいいるだろうか。

まず舞台となるゴッサムシティは貧富の差が激しく、ゴミ収集がストでストップしてゴミと悪臭が溢れている。現代アメリカをはじめとする新自由主義的な社会構造を象徴する光景だ。

ホアキン・フェニックス演じる主人公のアーサーは貧しい母子家庭に育ち、コメディアンを目指しながら毎日ピエロとして各所に派遣されては日銭を稼いでいる。

アーサーは何の脈絡もなく笑い出してしまう精神的な持病を持ち、入院歴もある。社会福祉事務所で毎週面談を受け、薬も処方されている。現代日本ではいわゆる「底辺」や「貧困層」と呼ばれるタイプの人間だ。

若者に暴力を振るわれ、持病を奇異な目で見られ、それでも見果てぬ夢を胸になんとか前に進もうとするが、アーサーは同僚からもらった銃に絡む失態で遂に失職し、心折れてしまう。

こうした舞台設定やアーサーの境遇、そして序盤のエピソードに自分の境遇を重ね合わせる事のできる層は少なくない。むしろこの20年で徐々に増加しているだろう。

◆「義賊」としてのジョーカー
そんな失意の中、地下鉄車内で女性に嫌がらせをするエリートビジネスマンの3人組を行き掛かりで射殺した瞬間から、アーサーは変わり始める。そしてその殺人は、格差社会の中で富を独占するエリート層への反発から人々の間で英雄視されることになる。

この事件をきっかけにジョーカー(この時点ではピエロの面を被った私刑人)はロビン・フッドや怪傑ゾロ、ビリー・ザ・キッドのような義賊としての性格を帯び始めるのだ。

アーサーは殺人の後に汚れた公衆便所の中で法悦の表情で踊る。縛られていた何かが解き放たれていることを観客はホアキン・フェニックスの演技から痛いほどに感じ取る。その後アーサーはピエロの事務所を飛び出すが、光の中へと駆け出していく後ろ姿には晴々しさすら感じられる。

アーサーはそれから自分を虐待して騙した母親を殺し、銃を渡して最後には陥れようとした同僚を殺し、自分を笑いものにしたコメディショーの人気司会者を殺す。当然、法的にも道徳的にも許されない行動だ。

それでもアーサーが義賊としてのイメージを損なわないのは、彼が純粋悪の権化としてではなく、あくまで自分を虐げる者への反逆者として描かれているからだ。

それはアーサーが殺さなかった者が誰かを見てみると分かる。同僚を射殺した際、同行していたアーサーに同情的だった小人症の別の同僚を見逃すどころか、積極的に逃亡に手を貸している。

さらに、自分が妄想の中でガールフレンドだと思っていた黒人女性とその娘を殺すこともない。なぜなら彼女はアーサーを虐げていないから。あのシーンでアーサーが親子を殺害するかもしれないと息を呑んだ観客も多かったのではないだろうか。

アーサーは殺害する対象を明確に限定することで、「ダークナイト」でヒース・レジャーが演じた悪意と狂気の塊のジョーカーとは別の存在であることを強烈に示している。

この性質はジョーカーに触発された暴動の群衆にも受け継がれる。作中でエリート層の象徴たるウェイン夫妻が殺害された時、一緒にいた後のバットマンである幼いブルース・ウェインだけが見逃されたのは、単なる物語上の整合性のためだけではない。

ジョーカーに「弱きを助け強きをくじく」義賊としての性質が揺るぎなく示されているからこそ、観客はジョーカーに共感し、彼の生々しい殺人にすら感情移入し、カタルシスを得ることができる。

こうして、ラスト直前でピエロの面の暴徒の大歓声の前で壊れたパトカーのボンネットの上に立つジョーカーの姿をキリストの復活とだぶらせる(貧しい人々は、幸いである)見方がこの上ない説得力を持つ事になる。

貧しい人々にとって義賊たるジョーカーは自らの求めた価値の体現者であり、それを行動で示した英雄となる。ピエロの面という予め与えられた匿名性は彼らをもうひとりのジョーカーへと変貌させる。

この映画「ジョーカー」の中で生まれたジョーカーはAnonymousがそうだったように、匿名性の中で法すらも超越してエリート層に反逆を行うアイコンであり、そのアイコンの象徴を模倣することで自らが同一化できるミームであった。

一度生み出されたミームは、例え生み出したアーサーが死んだとしても簡単に消えることはない。それは1940年に生まれたジョーカーというヴィランがジャック・ニコルソンやヒース・レジャーらの手によって何度も、少しずつ形を変えながら生き続けていることとパラレルだ。

マレーを殺害し、ピエロの面の暴徒たちの暴れ回るゴッサムシティをパトカーの中から見つめるジョーカーの表情は、この上なく満ち足りているように見える。これは成し遂げた者の表情だ。

ジョーカーというミームが生まれ、既に野に放たれた。もうこれを誰も消すことはできないとジョーカーが知っているからこその表情だ。

だからこ「そジョーカー」はホアキン・フェニックス演じるアーサーの物語でありながら、あなたや私の物語でもあり得るのだ。それこそが、アメリカ合衆国で警察や軍隊がこの映画を警戒した理由でもある。

◆トリックスターの誕生としての「ジョーカー」
別の観点からは、この「ジョーカー」は神話的なトリックスターの誕生の物語とも言える。アーサーの職業である「道化」はトリックスター性そのものと呼べる存在であり、また「笑い」自体がそもそも階級や序列を無化する行為となる。

「笑い」によって笑われるのは伝統的に強者、権力者だ。古来喜劇の中で王や聖職者が笑いの対象とされてきたことは改めて指摘するまでもない。

道化が喜劇への登壇を願って紆余曲折の末に実現し、メインストリームのコメディショーをぶっ壊して大喝采を浴びると考えれば、これはトリックスター誕生のサクセスストーリーとして読むこともできる。

アーサーがウェイン氏の息子であるという可能性が作中で示唆されながら、ウェイン氏の否定と母親のカルテによってその事実が否定されるという部分も非常に示唆的だ。

「王の息子(そして後のバットマンの兄)」という象徴的な地位を剥奪されたアーサーは、母の写真に書かれたウェイン氏のものと思われる愛の言葉を見つけるが、その写真をあっさりと捨ててしまう。

既にその象徴的な地位は、ジョーカーというトリックスターとして覚醒しつつあるアーサーからは無用の「設定」でしかなくなっているのだ。軽やかに舞い、縦横無尽に駆け巡るトリックスターにそうしたしがらみが不要である事をアーサーは既に知っている。

そして、この誰でもないトリックスターとして覚醒することで、この物語はまた別の観点から「王の息子でもバットマンの兄でもないあなたや私の物語」としても機能するようになる。

◆確信犯的に織り込まれた仕掛け
これらの重層的で巧妙な仕掛けは、もちろんトッド・フィリップス監督が確信犯的に作品に織り込んだものだろう。監督もホアキン・フェニックスも鑑賞者がどのようにも解釈できる余地を残したことを指摘し、どれが「正解」かには答えないと明言している。

つまり、鑑賞者が「ジョーカー」を「あなたや私の物語」として受け取ることをこの作品は否定しないのだ。だからこそ殺人や暴力、テロリズムの賞賛という批判を受け、警戒されることになっている。

既に「ジョーカー」の多くの解釈や考察がネット上には溢れているが、その中にはブルースとの年齢差から、アーサーはバットマンシリーズのジョーカーではなく、本物のジョーカーを生み出す「ジョーカーというミーム」の産みの親であるというものがある。

これは不特定多数のジョーカーの存在を許容する解釈であり、多数のジョーカーの中にバットマンと渡り合う本物のジョーカーがいるという世界観を支持する。

また、ラストシーンの病院で面談を受けているジョーカーだけが本物のジョーカーであり、そこに至るアーサーの物語は全てジョーカーの妄想(もしくはジョーク)であるとするものもある。

この場合、彼の扇動的で危険な妄想(もしくはジョーク)が向けられている対象はスクリーンを見つめる鑑賞者ということになり、「本物のジョーカーが映画を通し、直接現実世界の鑑賞者を煽動する」というなんともジョーカーな構図が生まれる。トリックスターの面目躍如である。

さて、もうじきハロウィンが訪れるが、今年は街にピエロの面やジョーカーの仮装をした「何者でもない人々」が溢れかえることになるのだろうか?

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