【コラム】「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が描き出したいくつもの片隅のこと



クラウドファンディングから始まり、大勢の口コミによって社会現象となり、世界に羽ばたいた映画「この世界の片隅に」から3年。前作の2時間では描ききれなかったさらにいくつもの片隅を39分間に渡って描き足して作られたのが本作だ。

本作では何が描かれ、それによってこの作品はどのように変化し、広がり、深まったのかを考えてみよう。

【以下、本作のネタバレを含みます】


◆「この世界の片隅に」とは
「この世界の片隅に」がどれほど凄い作品であるか。これまでも前作を見た多くの人々が熱く語ってきた。今や戦争を扱った作品として「火垂るの墓」や「はだしのゲン」と並び称される程にまで知れ渡っている以上、敢えてその評価に深く踏み込むことはするまい。

ひとつ言うならば、「この世界の片隅に」はいわゆる「戦争映画」や「反戦映画」とは違うアプローチを取った作品だ。あくまで北條すずという「呉に嫁いだ若い主婦の日常生活」として物語は展開する。

ただしすずは大正14年(1925年)に広島の江波に生まれて昭和19年(1944年)に日本最大の軍港である呉に嫁いだため、その日常生活は第二次世界大戦の影響を強く受けることになる。

そのようにあくまでミクロの視点から、特にすずという「絵を描くのが好き」で「ようぼーっとしとる」ユニークな女性の目から見た世界という視座から「第二次世界大戦中の日常生活」を描くことで、この作品は「戦争の中での生活」に留まらず「生活の中に入り込む戦争」を浮き彫りにすることとなった。

◆すずの目から離れた片隅たち
そして、「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が描き出したのは、あくまですずという存在を主軸にしながらもより拡張された世界だ。前作ではすずの視点から外れたシーンは極めて少なかった。

挙げるならばB29が戦艦大和の位置を捉えるシーン、行方不明になっていた義父の円太郎が見つかって義姉の径子が病院へと走るシーン、そして終戦後の描写で資料を焼却する円太郎の場面だろうか。

本作ではすず以外の登場人物が主として動いたり、心情が描かれる場面が増えている。子供時代の荒れて暴れている哲の描写、嫁ぎ先に戻ろうとする径子のつぶやき、夜の小林夫妻の会話、工廠での円太郎の仕事、広島帰りでゆっくりと歩く知多さん。どれも極めて重要な場面だ。

これらの場面は「この世界の片隅に」で描かれた世界を押し広げる。すずの目から離れ、世界の片隅の角をひとつ曲がった先を見せてくれる。それはすずが嗅いだカレー粉のように、ほんの少しでも世界の味わいを大きく変えるスパイスとなっている。

◆すずと対置される女性たち
「この世界の片隅に」にはすずと対置される女性たちが3人登場している。妹のすみ、義姉の径子、そして遊女のリンだ。彼女らはいずれもすずが「選ばんかった道」の先にいる人物である。

もちろんすずが主体的にそうした選択をしなかったというわけではなく、あり得た世界線のひとつという意味だ。

すみは1歳違いで、広島で女子挺身隊として動員されている。これは「すずが嫁がなかった」場合に進んだ道の先の存在だ。同時にすずが出戻りして広島に帰った場合に歩む道でもある。

径子は10歳ほど年上ではあるが、主体的に自らの未来を切り開く極めて現代的な女性として描かれる(強く家父長制を重んじているのは家柄や時代性か)。他人の言いなりで知らない家に嫁に来たすずとは対極的な存在である。

リンはほぼ同い年で、貧困故に売られた子供だ。遊郭に拾われて遊女となった彼女の境遇は(本作中のリンの台詞からも分かるように)この時代では特殊なものではなかった。もしすずが生まれた環境が少し違えばそうなっていたかもしれない存在だ。

彼女らはすずがそうであったように、それぞれの形で戦争の影響を受ける。すみは母親を探して被曝し、原爆症を発症する。径子は建物疎開で店を無くし、息子を嫁ぎ先に跡取りとして取られた上に娘を空襲で亡くす。リンは空襲で行方不明となり、死亡したと思われる。

彼女らの人生がすずの人生と響き合うことで「この世界の片隅に」は重層的な物語になっていくが、前作では大幅にカットされ、本作で深く描かれたのがリンの存在とすず、及び夫の周作との関係である。

◆あてがわれた「代用品」としてのすず
戦中に嫁入りをした高齢女性が前作を鑑賞した感想として、「すずさんはいいところに嫁に行った。自分はもっと酷い奴隷のような扱いを受けてきた」というものをいくつかSNS上などで目にした。

確かに前作ではすずは義姉の径子にはいびられたものの、夫や義理の両親からは暖かく迎えられる。その理由が本作ではしっかりと描かれている。

家を継ぐべき息子の周作が遊女のリンに同情して身請けしようとし、家族親族からの反対の末に条件として提示したのが「浦野すず」という女性を探し出すことだった。

そして北條家が体面や世間体を守るために難儀して見つけ出したのがすずであり、すずは海軍一家の次期家長に妻として捧げられた「供物」と言うこともできるだろう。

もちろん当時は嫁入りした女性はすべからく跡継ぎの男児を産み、また嫁入り先の家事全般を取り仕切ることを期待されており、それができなければ実家に返されることをすずもリンに語っている。

そうした状況下でなかなか世継ぎを産めず、後には右手を失ったすずがそれでも北條家に受け入れられた背景にはこういった経緯が存在している。

◆描かれたリンとのエピソード
だが本作では、いくつかの偶然から周作がリンの事を想い、過去に通じていたことをすずは知ることになる。

同じ「広島の海の方」出身で近い言葉で話し、北條家という嫁ぎ先から切り離された場所で会う、すずが「友達」と呼べる女性がリンだ。

慣れない嫁ぎ先で重責を負う中で出会い、友達であると思える女性の事を自分の夫が想っていた。その女性と結ばれなかったから自分が今ここにいる。すずは自らをリンと比べて「何もかなわん気がする」と感じてしまう。

「この世界の片隅に」はすずが居場所を見つける物語でもあったが、本作ではひとりの女性の成長だけでなく、より人間関係の中での心の揺れ動きに焦点が移っている。

その意味で本作は恋愛映画の色彩を強めており、すずとリンという魅力的なふたりの関係はより複雑に、秘密を抱えたものとして描かれる。そして戦争や家庭といった「社会」の外で出会ったはずのリンもやはり社会に翻弄される存在なのだ。

そのやり取りの中でリンもすずが「いいお客さん」だった周作の妻であることを知ることになる。すずに渡された茶碗の意味。息を呑む程に美しい桜の木の上での対話。リンの内面ははっきりとは描かれないものの、夫の名を口にするすずにしばし沈黙するリンは何を思っていたのだろうか。

そしてすずが「何もかなわん気がする」と感じたリンから見れば、すずは自分にないものを山ほど持っている。文字を読むことができ、絵を描くことができる。広島には家族があり、リンにとって「いいお客さん」だった軍人の妻の座もある。

この辺りのすずとリンの想いは簡単に言語化できるものではない。周作と哲というふたりの男性と関わり、その中で自分の心を確かめていくすず。北條家の嫁として、海兵団での訓練に夫を送り出す時に付けた「テルさんの紅」の真の意味は本作でようやく明らかにされる。

◆そして戦争の牙は突き刺さる
夫の周作を送り出した昭和20年5月。その時には既に義父は工廠への空襲で行方が分からなくなっている。何度も空襲があり、戦争はすずの間近にまで近寄ってきている。

戦時中ながら持ち前の気質で生活を続けてきたすずに戦争が食らいつくのはその1ヶ月後の事だ。空襲の後に時限爆弾で右手と姪の晴美を失い、その後の空襲で家には焼夷弾が落ち、呉の街は焼け野原になる。原爆が広島に落ち、終戦を迎える。「呉に嫁いだ若い主婦の日常生活」が無残なまでに戦争に打ち砕かれたのだ。

だが、ここで物語最大のどんでん返しがある。哲が「この世界で最後までまともであってくれ」と願ったすずは「そんとな暴力に屈するもんかね」と「何でも使って暮らし続ける、それがうちらの戦い」と語り、玉音放送を聞いて負けを認めた日本に怒りをぶちまける「軍人の妻」となっていた。

その後、街から太極旗が掲げられるのを見て「暴力に屈しなければならない」理由をすずは悟る。これは「戦争の中で健気に暮らしてきたのに戦争でボロボロに打ち砕かれた被害者」だった自分が同時に戦争の加害者として生き、戦争に荷担してきたという事実を知った瞬間だ。だからこそすずはここで「ぼーっとしたうちのまま、何も知らんまま死にたかった」と号泣せざるを得ない。

これは円太郎が工廠で空襲を受ける場面での「自分たちの悪夢が誰かの夢の結晶かもしれない」とつぶやいた台詞にも通じる。原作での台詞に比べるとより婉曲的な表現になっている事には前作の時点で批判もあったが、戦争においては誰しもが単なる被害者ではいられない事が描かれる、極めて痛切で残酷な場面でもある。

余談ではあるが、今上天皇の一家が本作を閲覧したことがニュースにもなっていた。今上天皇からすれば自分のおじいちゃんがチョイ役ながらも最重要人物として出演している作品だ。感慨深かったに違いない。

その人物(当時は神だったが)は庵野秀明風に言うのであれば「世界の中心で玉音を賜う現人神」であり、そして世界の片隅の人々が描かれる本作で唯一真逆の「世界の中心」という立場にあった。

世界の片隅の、フィクションの登場人物が放った啖呵が70年以上の時を経て、その相手の現実の孫に届くというのはなんとも不思議な話だ。

◆戦争でなくとも人は死ぬ
本作で描かれたエピソードには戦後のものもある。そのひとつが9月17日に日本を襲った枕崎台風であり、死者2473人、行方不明者1283人という極めて大きな被害を出している。この際に、原爆投下後の広島を訪れていた伯父の小林が体調不良を訴えている。

そして11月には看護師として広島に救援に向かっていた知多さんとのエピソードがある。こちらは原作にあったシーンだが、ここで知多さんは秋も深まっているのに日が眩しいと日傘を差し、不吉なまでにひどくゆっくりと歩く。

こちらは前作にもあったシーンだが、すみが体調を崩して原爆症と思われる紫色の痣が腕に浮き出ているシーンがある。本作ではより原爆の影響について長く語られており、観客はラストシーンですずと周作が連れ帰った女の子が原爆投下以来ずっと広島の瓦礫の中で暮らしてきたことを思わずにはいられない。

エンドロールでは北條家の面々と楽しそうに暮らしている彼女の身体は本当に大丈夫なのか。その疑問に原作者のこうの史代は「この世界の片隅に」の前作にあたる夕凪の街、桜の国で答えているので未読の方はぜひ読まれることをおすすめする。

さて、つらつらと書き連ねてしまったが、まだ「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」がもたらしたものの全てを網羅することはできていない。1回しか見ていない以上、咀嚼して消化しきれるような生やさしい作品ではないのは承知の上だ。

既にネット上には本作に関する記事が並び、レビューや感想も投稿され始めている。作品を見てこれらの記事を読み、何度も繰り返し見ていく中でようやくその全貌が少しずつ見えるようになっていくのが本作である。

前作は15回劇場で見たが、今回は何回くらい見に行くことになるのか、そのように回を重ねるごとに自分の本作への感想はどのように変わっていくのか、それも楽しみである。

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