【コラム】「ミノタウロスの皿」無料公開に寄せて、絶対的階級社会とカルトの融合した比類なきディストピアの創造


藤子・F・不二雄のSF(すこしふしぎ)短編の傑作として語り継がれている「ミノタウロスの皿」が1月7日10時まで無料公開されている。

すでにツイッター上では一時トレンドにも上がって話題となっているが、ここで描かれている世界はいったいどのようなものなのかを見てみようと思う。

まずこのキャンペーンはドラえもん公式サイトが冬休み特別企画まんが無料配信『ドラえもん』& more!!として期間限定で行っているもの。

藤子・F・不二雄SF短編集に収録されているミノタウロスの皿はドラえもんの「精霊よびだしうでわ」、パーマンの「パーマンはつらいよ」と共に第3期として1月4日の10時から7日の10時まで公開されている。


以降、ネタバレになるのでまずは19ページの短編なので(そう、たったの19ページなのだ)、実際にミノタウロスの皿を読んでから読み進めてほしい。

まず「ミノタウロスの皿」は1969年に藤子・F・不二雄が小学館「ビッグコミック」に、初の大人向け作品として執筆したもの。これ以降「ビッグコミック」と「S-Fマガジン」に大人向けの作品を発表するようになったことを考えると、これがなければ「藤子・F・不二雄SF短編」が生まれなかったという記念碑的な作品でもある。

1969年は東大を中心とした学園紛争が最盛期を迎えて東大安田講堂事件が起こり、人類初の有人月面着陸に成功し、ウッドストックフェスティバルの開催された、村上春樹いわく「われらが年」である。今から51年前だ。

この作品で描かれているのは人類の1人の男性が宇宙船の事故で不時着したイノックス星で出会った生き物たちとの交流だ。主人公の男性が人間そっくりの美しい少女ミノアに出会うところから物語は始まる。だが彼女は人間ではなく、この星の家畜に当たる種族だった。

この物語で描かれている支配者「ズン類」と家畜「ウス」の社会は、絶対に覆ることのない階級社会である。それは地球の人類と家畜のように、何があっても逆転はしない。

こうした絶対的階級社会を描いた作品としてはジョージ・ミラーの映画「ベイブ」がある。これは子豚を主人公としたほのぼの動物映画と見られがちだが、支配者である人類の農場主と、労働、愛玩、食用家畜らの話としてみれば構図は同じだ。

大きな違いは、「ベイブ」では主人公の子豚ベイブが食用にされないために史上初の「牧羊豚」として自らの存在の有用性を認めさせて生存を図る。そう、ベイブはあくまで食べられるのは嫌なのだ。

だが、同じミラーの映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」で描かれたような苛烈な階級的支配への反抗や逃走はここにはない。あくまで支配者たる人類に認めてもらい、生きさせてもらうのがゴールなのだ。

数えきれないほど大勢のイモータン・ジョーが圧倒的な文明と組織力を持って君臨し、当然の日常的システムとして絶対的に統治し、家畜たちの生殺与奪を含む全てを握っているのが「ベイブ」の世界観である。そう、それは現在の地球の姿そのものだ。

「ミノタウロスの皿」のイノックス星はそうした地球の人間と家畜を入れ替えた、ある種のパロディ的な環境として描かれている。違いは人間そっくりの家畜「ウス」に人間とコミュニケーションできる知性と言語があり、前近代的とはいえ文明や文化を持っていることだ。

もしミノアが殺されたくない、食べられたくないと考えていたら、「ミノタウロスの皿」は「ベイブ」とどこまでも似通った作品でしかない。この物語の重要な点は、ミノアを含む「ウス」たち全員が「ズン類」に与えられた「労働種」「愛玩種」「食用種」といった分類を自明のものとして受け入れていることだ。

作中で人間の主人公が語っているように、「すべての生物には生きようとする本能があって、これはぜったい消すことのできない」ものである。実際にミノアも死への恐怖を持っていることが本人の口から明かされている。

それでもミノアは自分の「食用種」としてのアイデンティティを捨てることなく、その最大の栄誉である「ミノタウロスの皿」を命よりも大切なものとして喜んで受け入れ、食べられて死ぬことを選ぶ。

これに比することができるのは、自爆テロを行うような極めて原理主義的なカルトである。生への本能にも勝る価値を信奉して死へと赴くミノアの姿は美しく、祝祭的な「生贄」のように描かれる。

だが、この社会においては「ズン類」も「ウス」もそのことには一切無自覚だ。有史以来5000年に渡って誰も疑問を持たず、「食物連鎖の一環」として当然の摂理と理解される。

藤子・F・不二雄が描いたのは、家畜が知性を持ちながらも覆ることのない絶対的階級社会を自明のものとして受け入れ、食べられることすらも当たり前だと考える完成されたディストピアである。

お分かりだろうか。それは純然たるユートピアなのだ。そこに反抗するフュリオサはおらず、食べられまいとするベイブもいない。地球から訪れたマックスのみが蚊帳の外でひとり相撲を取り続ける。

ネット上で時折見かける同作のひとコマで主人公は「言葉は通じるのに話が通じないという……これは奇妙な恐ろしさだった」と独白する。

この作品が描いているのは単なる「価値観の違い」などという生やさしいものではない。主人公が述べているのは極めて人間的なものの見方であり考え方だ。藤子・F・不二雄はそれを完膚なきまでに打ちのめし、主人公は灰のようになって打ちひしがれる。

最後のコマのオチで泣きながら好物のステーキをほおばる主人公が、そして同時に読者が突き付けられているのは何か。それは私たち人間の持つ「家畜が支配者たる人類と深い友情で結ばれ、その立場に疑問すら持たずに平和に暮らしている」という幻想がいかにグロテスクなものかということだ。

知性を持たない地球の家畜に人間は問うことはできない。目の前で肉片となって焼かれている牛を食べながら見えてくる世界、それこそが藤子・F・不二雄が描いたこの地球上の、現実の「社会」なのである。

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