【飛鳥編】水戸黄門が助さんに調査させた、飛鳥時代末期に新羅人が記した国宝「那須国造碑」



情報量で殴られるようなエピソードてんこ盛りながら超マイナーな国宝が栃木県の片隅にひっそりと存在していたので訪れてみました。映画化待ったなしです。詳細は以下から。

現在日本には建造物と美術工芸品を合わせて1100件余りの国宝が存在しています。その多くは人気の観光地になっているか厳重に保管されているのですが、この国宝は少し事情が違いました。

栃木県大田原市湯津上の笠石神社に祀られている国宝那須国造碑は700年頃に建てられたと考えられる石碑。花崗岩に19字8行、全152字の碑文が刻まれており、上部には笠のような石が載せられていることから「笠石」とも呼ばれます。

この「那須国造碑」が他の多くの国宝とどのように違うかを知るためには、碑が建てられた時代と「再発見」された時代に目を向けてみる必要があります。今回はまずどのようにこの碑が建てられるに至ったかを見てみましょう。

「那須国造碑」の内容は、永昌元年(689)に那須の国造であった那須直韋提(なすのあたいいで)という人物が評督という評(後の郡)の長官の官職を賜ったこと、その後700年に亡くなったことなどが記されています。

平城京への遷都が710年、古事記の編纂が712年ですから、この当時は持統天皇が藤原京に都を遷し、大宝律令が制定された飛鳥時代末期ということになります。

人類の発明した最も堅牢な記録手段が「岩に刻みつける」事だという指摘はネット上でもよく見られますが、この碑文は奈良の都よりも古事記よりも古く、そして当時から一切編集されていない原文そのままの記録です。

これは現存する「古事記」の最古の写本が1371~1372年に写された真福寺本「古事記」三帖(国宝)であることを考えると、どれだけ貴重な歴史的資料であるか感じていただけるでしょうか。

この碑文の最も特徴的なところは永昌元年」という元号です。日本初の元号が生まれたのは701年の大宝であることはよく知られていますが、ではこの「永昌」はどこから来たのでしょうか?

それはもちろん唐ということになるのですが、この元号は則天武后が武州革命で国号を周と改め、唐朝を中断させた際に用いたもの。


そして遣唐使は669年を最後に30年以上途絶えており、武州革命以降には送られていなかったため、永昌という元号を用いる事ができるのは「武州革命以降に大陸から渡来した外国人」ということになります。

実際に、日本書紀にはこの時代に朝鮮半島から新羅人が渡来して関東地方に移住していたことが記されており、六朝調の極めて気品のある書体から日本三古碑のひとつとされています。高校で書道を履修した人は教科書で見たことがあるかもしれません。

この碑の表面は平らに磨き上げられており、文字が浮かび上がってくるような堀り方をされています。現代においても掘られた文字をはっきりと読むことができ、渡来人の高い技術力を伺い知ることができます。なお、碑の特徴である笠石は日本では他に見られず、新羅時代の朝鮮半島の碑に僅かに残されています。

また、碑文の後半には孔子の字(あざな)である仲尼や「鼓腹撃壌」の故事で知られる中国の伝説的な皇帝の文字も見られるなど、仏教や儒教の影響が色濃く見られており、新羅の渡来人の中でも僧侶や知識人が記したと考えられています。

そんな時代に、当時の都があった近畿地方から遠く離れた栃木県に朝鮮半島から渡来人が訪れていたことが不思議に思われるかもしれません。ですがこの時代は663年の白村江の戦い、高句麗の滅亡、唐・新羅戦争を経て新羅が半島を統一し、天武天皇や持統天皇が親新羅政策を取っていたことから新羅人が渡来・帰化していました。


日本書紀には、ちょうど690年に50人の新羅人が帰化し、下毛野国(しもつけのくに、現在の栃木県)にその一部が移住したことが書かれています。碑に描かれた那須直韋提は新羅人をいたわって厚遇したことから、その恩を受けた新羅人達が碑の建設に携わったとされています。

この時代に栃木県に住み着いた新羅人たちはこの碑が建てられた50年後、奈良の大仏こと東大寺盧舎那仏像に深く関わることになります。


この大仏は当初金箔で覆われていたことはよく知られていますが、奈良時代に知られていた金の産地は陸奥(福島県・宮城県)と駿河(静岡県)の他にはこの下毛野国しかなく、「那須国造碑」からも遠くない武茂川での採取の記述は日本最古のものとなります。

この際には「ゆりがね」と呼ばれる採取方が取られており、場所の特定や採取技術に新羅からの渡来人が大きく関わっていたことが指摘されています。

このように、7世紀後半に栃木県に移り住んだ新羅からの渡来人らは後に国宝となる「那須国造碑」を作り上げ、その後奈良の大仏にも関わったことが分かります。

日本が古来孤立した島国だったという印象を持つ日本人は多いかもしれませんが、時代によっては地方レベルにまでこうした交流が及んでいました。「那須国造碑」はそうした時代の国を超えた人や技術の移動を如実に示していると言えるでしょう。

ですが「那須国造碑」はその後忘れ去られ、草むらの中に倒れて埋もれることになります。この碑が次に歴史の中に顔を出すのはおよそ1000年後のこと。水戸黄門こと水戸光圀公の手に寄るものです。

次回は水戸黄門が助さんに命じて行わせた、世界初とも言われる考古学的調査の顛末についてお伝えします。

那須国造碑・侍塚古墳の研究―出土品・関係文書
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