【コラム】「シン・エヴァンゲリオン劇場版」描かれたこの世界の片隅とセカイの終わり【ネタバレ注意】


3月8日の公開から1週間が経った。待ち望んだファンの多くが劇場に駆け付け、日曜夜の上映に臨むファンたちも既に家を出ただろう。そろそろこの作品、いやここに至る長い道のりとその終わりについて話してみようと思う。

未鑑賞のファンはこのままそっと閉じてほしい。可能な限り早く劇場に向かい、膀胱を空っぽにした上でじっくり鑑賞してほしい。では始めよう。

【これより完全なネタバレを含みます】

◆95年我らが年、そして四半世紀という時の流れの果てに
阪神淡路大震災が発生し、地下鉄サリン事件が起こった1995年、この世界に「新世紀エヴァンゲリオン」が誕生した。ノストラダムスが人類滅亡を予言した1999年を目前に控え、世紀末という言葉が私たちの周りを実感として取り巻いていたあの時代に。

村上春樹は69年を「我らが年」と呼んだが、今30代から40代の多くの人にとって95年は「我らが年」と言える1年だった。10代から20代の多感な時期、私たちは95年を体験した。エヴァはそんな特別な年に生まれた。

それから四半世紀が、2021年に「シン・エヴァンゲリオン劇場版」(以降、シン・エヴァ)は公開された。当時エヴァに熱狂した若者はミサトよりも年上になり、場合によってはゲンドウと同世代になった。シンジと同じ歳の子どもがいてもおかしくない「大人」だ。

この「シン・エヴァ」が誰に向けた映画かといえば、間違いなく最初のテレビ版にハマり、旧劇場版でノックアウトされ、それでも新劇場版を追いかけてきた長年のファンだろう。

これに似たつくりの映画で思い浮かぶのは「T2 トレインスポッティング」だ。90年代後半にサブカル好きを熱狂させた前作の20年ぶりの続編で、前作の20年後を描き切って当時のファンにアンサーを叩きつけた。

「シン・エヴァ」もエヴァに惹きつけられ、人生を捧げ、救われ、曲げられ、縛られつつ歩んできたファンへの庵野監督からのメッセージだ。

こうした作品を評論すべきか、考察すべきか、もしくは何もすべきでないのか。意見はいろいろあるだろうが、個人的には「感想」を述べるのが最も正直な態度ではないかと考える。

だからここからは個人的に何をどのように受け止めたのか、感想ベースで書き連ねてみたい。

◆庵野監督の描いた「この世界の片隅」の情景
庵野作品は多くの場合「世界の中心でアイを叫んだけもの」の話である。片渕須直監督が主に「この世界の片隅に」ある物語を描くのとは対照的だ。

これまでのエヴァ諸作品もそうだし、「シン・ゴジラ」でも一般人の被害の描写は極めて限定的で「マンションの崩壊に一瞬で飲み込まれる家族の姿」程度にしか描かれていない。

だが「シン・エヴァ」では非常に長い尺で破滅を生き延びた「第3村」での生活と情景が描かれる。背景や書き割りでなく、いわゆる「モブ」の村人たちの仕事、食事までもが丁寧に描写されており、これは大きな衝撃だった。

「綾波」は「この世界の片隅に」の隣組を思わせる女性らと田植えに励み、公衆浴場で湯に浸かり、赤ん坊をだっこする。そこにあるのは現実の匂いを色濃く漂わせる生き生きとした社会だ。

そこで「綾波」はあいさつを覚える。あいさつは他者とのコミュニケーションの最初の一歩だ。他者が存在する世界で自分が生きることの象徴であり、その中で「綾波」は人間として生き始める。

90年代には自分と世界を社会を介さずに直接接続させる「セカイ系」作品が多く生まれ、エヴァもそうした作品のひとつと考えられていた。

シンジは教室を除けばネルフの中で使途とセカイの存亡をかけた戦いを繰り広げるばかりで、第3新東京市は戦闘の「舞台」でしかなかった。住民たちは背景でしかなく、セカイの外側の存在だった。

「シン・エヴァ」で描かれ村人の多くはそんな第3新東京市の生き残りだ。セカイの外側にいた人々が生きた人間として登場し、世界が描かれる。これは作品として極めて大きな転換であり、丁寧に描かれたディティールには庵野監督の強い想いを感じずにはいられない。

そして、この村で世界と交わって生きた「綾波」の想いを受け、シンジは父親との「落とし前」をつけるためにブンダーに乗り込む。ここにいるのは決着をつける覚悟を決めた一人前の人間だ。

◆弱く不完全な大人としての、もうひとりの自分としてのゲンドウ
少し前にツイッターでも話題になったが、エヴァのテレビ版を見直して驚くのがネルフの大人たちダメさ加減だ。ゲンドウは言うに及ばず、保護者役のミサトも現代目線ではアウトな場面が多い。

あの頃若者だった世代は、それを理不尽で理解の及ばない大人の理屈と見ていたかもしれない。それがまだ許される世間の空気もあったかもしれない。

いずれにせよ、現代の大人の目からはまとめて社会人として失格であり、やっているのは完全な児童虐待でしかない。

ただし、そんな元若者たちが強くて立派な大人になっているかといえば、話はそう簡単ではない。大人は若い頃に思っていたほどに強くも立派でもないことを私たちはもう知っている。

弱さを抱え、傷を引きずり、大人としての責任を背負って何とかやり繰りしようと試行錯誤を繰り返し、それでも失敗してしまう不完全な存在が現実の大人なのだ。

だからこそ「シン・エヴァ」で描かれるゲンドウのあまりにも個人的で小さく弱々しい「願い」は誰にとっても他人ではない。愛別離苦にあえぎ、世界を引き換えにしても失われた愛する人に会いたいという頑迷な想いを一蹴することはできない。

家族、恋人、友人…大人になって生きていく過程で、人は誰かしら大切な人を失っていく。それは誰にとっても寂しく堪え難いものだ。雨に濡れた子犬のようなゲンドウの姿は見知らぬ誰かではなく、いつか訪れる自分の姿なのである。

「シン・エヴァ」は英雄神話の「父殺し」の物語として見ることができるが、四半世紀が経つ中で当初のファンたちはその父の年代になった。シンジが自分を抑圧してきた父親に対峙する時、自分は既にその父親でもあるのだ。

シンジはそんな父親のゲンドウを解放するが、解放されているのは弱さを抱えた不完全な大人となった自分でもある。「シン・エヴァ」ではゲンドウはシンジに似た不器用で孤独を好む人間として描かれており、ここで救う者と救われる者が重なり合う。

そしてゲンドウはついに息子の中にユイを発見する。「シン・エヴァ」の最重要シーンのひとつだ。ゲンドウは人類補完計画という自分の作り上げたセカイの外側にシンジとユイを見つけ、救われる。

子どもだった自分が大人になることで、大人である自分を許し、認め、救うという、現実の四半世紀という時間そのものを要素として取り込んだ構成と言えるのかもしれない。

◆マリという存在の意味、セカイから世界へ
そして「シン・エヴァ」はいわゆる「マリエンド」を迎える。新劇場版の2作目「破」で登場した新キャラのマリと結ばれる終わり方に悲嘆の声も上がったが、これこそが最大のメッセージといえるだろう。

マリはテレビ版と旧劇場版に登場しなかった新劇場版で加えられた新要素であり、それ以前のセカイを打ち壊す存在である。

マリは新劇場版以前のエヴァという閉じられた作品世界を打ち破り、シンジを物語のセカイから現実の世界へと解き放つ存在としてこの物語に降り立った。

14歳の頃に好きだった人とのちに結ばれるという展開は物語としてはありがちなだが、実際は大人になってから出会った相手と結ばれる人の方がはるかに多い。

2015年の調査では、夫婦の出会いのきっかけは学校と幼なじみ・隣人をあわせても13%程度でしかなく、未婚者(17~34歳)の交際相手との出会いで見てもせいぜい1/4だ。

つまりマリエンドは物語(セカイ)としては異端に見えても、実際の人生としては極めて現実的な結末なのだ。

「シン・エヴァ」はすべてのエヴァンゲリオンに別れを告げる物語だったが、それはエヴァンゲリオンが象徴するセカイとの別れであり、この世界への帰還だ。マリはその現実へと通じる鍵なのだ。

◆英雄は帰還し、少年は神話になった
「残酷な天使のテーゼ」の「少年よ神話になれ」というフレーズはついにここに帰着する。少年は父親に呼ばれてセカイに踏み込み、幾多の苦難を経験し、父親を超えるまでに成長し、偉業を成し遂げて世界に帰還した。

英雄神話において「英雄の帰還」は物語の最後を締めくくる極めて重要な場面だ。シンジはマリとともに世界へと降り立ち、エヴァという神話は完結した。

そう、エヴァを見るのは長い長い英雄神話の追体験である。長く深くエヴァにコミットした人ほど、今回の「シン・エヴァ」はイニシエーションとして深い意味を持つことになる。

ネット上では「卒業式」のような気持ちになったとの感想が多くつぶやかれていたが、これはまさしく終わりの儀式であり、個々のエヴァへの関わり方と自分の人生を合わせて走馬灯のように巡らせる体験となる。

卒業式は評論や考察するものではない。経験した人がそれまでの経験と響き合って何かを感じ、大切にするものだ。だからこそ唯一無二の解答を探すのではなく、それぞれに感じたものを胸に、エヴァの完結したこの世界を生きていけばよいのだと思う。

寂しいかもしれないが、ゲンドウがシンジの中にユイを見つけたように、エヴァが遺したものを私たちはこの世界の中に見つけることができるはずだ。

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