豊臣秀吉を神として祀る京都の豊国神社、そして日本史上最大の言いがかり「国家安康」「君臣豊楽」の梵鐘を訪ねる

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1200年を超える歴史を誇る京都では、大阪と違い伏見城や高台寺を除いては影の薄い豊臣秀吉。ですが実際には秀吉の墓所も京都に存在しており、浅からぬゆかりがあります。

そんな豊臣秀吉ゆかりの有名ながら訪れる人の少ないスポットを歩いてみました。

Buzzap!取材班が今回訪れたのは世界遺産の三十三間堂からほど近い豊国神社。ここにはかつて京都大仏と呼ばれる大仏があり、それを最初に作ったのはあの天下人たる豊臣秀吉その人でした。

ですが三十三間堂の賑わいをよそに、この豊国神社は訪れる人も少なく、ハイシーズンでも静けさに包まれています。

京阪本線の七条駅から徒歩で5分弱、住宅街を歩いていくと豊国神社の西側にある参道にたどり着きます。土産屋などもなく静かなもの。


すぐ右手に巨大な「耳塚(鼻塚)」が鎮座しています。朝鮮出兵の際、秀吉の軍は朝鮮の軍民の男女の耳や鼻を首級の代わりに塩漬けにして日本に持ち帰ったことは有名ですが、その供養のためにここに埋められています。


住宅街に自然に溶け込んでいますが、かなりの大きさであることが分かります。朝鮮半島で秀吉が嫌われる理由も分かろうというもの。


すぐ隣には「耳塚公園」というちょっと物騒な名前の公園も。


豊国神社の入口。この周囲だけ道路が広いためか朝はよくトラックが停車しているようです。


豊国神社の石垣。巨大な石組はなんとなく大阪城の石垣を思わせます。いかにも秀吉らしい作りとでも言いましょうか。



さて、境内に踏み入れてみましょう。



非常に広いのですが、少々さびれた感じは否めません。



こちらが国宝の唐門。南禅寺塔頭金地院にあったものが移築されています。無料で国宝を目の前で見られるのにこれだけ静かなのはなんとも不思議に感じますね。




唐門から奥を覗いてみます。やはり極めて広いですね。


秀吉といえば馬印として用いていたひょうたんが有名ですが、こちらではひょうたん型の絵馬を奉納できます。


この豊国神社は実は、かつて奈良と鎌倉に並ぶ日本三大大仏のひとつ「京の大仏」の大仏殿があった場所です。豊国神社の境内がやたらと広いのはここに大仏と大仏殿があったから。ですが現在は近所の交番などにわずかに名前が残るのみとなっています。さて、大仏に何が起こったのでしょうか。


「京の大仏」は最初は豊臣秀吉が建立を計画して造営を進め、ほぼ完成していたものの、慶長元年(1596年)の慶長伏見地震で開眼前の大仏は倒壊。

この際、秀吉は大仏に対して「おのれの身さえ守れないのか」と激怒して放棄したというエピソードが残っていますが、この後秀吉は病に倒れ、2年後には没してしまいます。翌年に秀吉は朝廷から豊国乃大明神の神号と正一位の神階が与えられ、豊国神社の祭神となります。


その後秀吉の子の豊臣秀頼が大仏の再建を行ったものの、慶長7年(1602年)に流し込んだ銅が漏れ出たためとされる(放火との異説もあり)火災で全焼。徳川家康の(豊臣家の財産を浪費させるためともされる)勧めで三度再建が企図され、慶長17年(1612年)に完成。

ですが慶長19年(1614年)に梵鐘が完成して開眼供養の日を待つばかりとなるものの、この梵鐘の銘文が豊臣家を滅亡に導きます。豊国神社の隣にある方広寺に現在もこの梵鐘が残されています。



この銘文の中の「国家安康」の句が徳川家康の家と康を分断して滅亡を願い冒涜するもので、「君臣豊楽」の句は豊臣を君主として繁栄を願っているという言いがかりが付けられ、大坂の陣のきっかけとなってしまったとされています。学生時代に習った記憶のある人も多いのではないでしょうか。


その後この梵鐘は呪いの鐘とされて地面に置かれて鳴らされなくなり、明治時代になって鐘楼が再建されるまで雨ざらしとなっていました。


そして豊国神社も家康の意向により、方広寺の鎮守とすべく後水尾天皇の勅許にて秀吉の豊国大明神の神号を剥奪され、豊国神社自体も廃絶されることになります。この辺りには豊臣家の記憶を徹底的に消去しようとする家康の執念めいたものも感じます。

京の大仏はその後も残されるものの、寛文2年(1662年)の地震(寛文近江・若狭地震)で大仏は破損。またもや再建されたもののその1世紀以上後の寛政10年(1798年)には大仏殿に雷が落ちて焼失し、その後は同規模の大仏は作られていません。

なお、19世紀の天保年間に尾張国の有志らによって規模を縮小した上半身のみの大仏が木造で再興されたものの、昭和48年(1973年)深夜の火災によって焼失し、その後「京の大仏」が再建されることはありませんでした。

なお大政奉還の翌年、明治元年でもある慶応4年(1868年)に明治天皇が大阪に御幸した際、豊国神社の再興を布告する沙汰書を下しています。

Wikipediaより)

徳川幕府の時代が終わりを迎えた直後、滅ぼされて時代の闇へと押し込まれていた豊臣家の威光を明治天皇が復興させることにどのような意味があったのか、改めて指摘するまでもありません。因果応報とでも言えるでしょうか。

大政奉還の行われた二条城が徳川の目から見た「盛者必衰」を表す場だったとすれば、豊国神社はかつて天下人として朝鮮半島にまで攻め入り、神として祀られながらも最後は敗北者として葬り去られた豊臣の側から見る「盛者必衰」の体現ということができそうです。

雅やかな平安京とは違う、近世の血みどろの権力闘争の場としての豊国神社、静かな境内と今も残る梵鐘にその生々しい時代の風を感じることができるでしょう。

さて、この後は豊臣秀吉の眠る墓所へと足を運んでみましょう。

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