シベリアとモンゴルの境目の湖の中にはいまだ謎に満ちた遺跡が浮かんでいます。詳細は以下から。
ロシア連邦トゥヴァ共和国南部の南の端、モンゴルとの国境ともほど近いSengelen山脈の中、標高2300mのテレホリ湖に浮かぶ小さな島にその遺跡は静かに横たわっています。遺跡の名前はトゥバ語で「粘土の家」を意味するポル=バジン。
ポル=バジンの存在自体は既に18世紀には知られていましたが、初めて調査が行われたのは1891年にロシアの考古学者によるもの。この際には8世紀から9世紀にかけてモンゴルを支配した回鶻のオルド・バリクとの類似性が指摘されました。この時点ではポル=バジンは要塞だったのではないかと考えられていました。
それからおよそ60年後、1957年から1963年にかけてロシアの考古学者S.I. Vainshteinはポル=バジンの調査を行い、唐王朝の建築様式との類似を指摘。また、碑文から回鶻の第2代ハン(可汗)であった葛勒可汗(かつろくかがん)が750年に作った要塞であるとの仮説を立てました。
その後に大規模な調査が行われたのは2007年になってからのこと。ロシア科学アカデミーとロシア国立東洋美術館、そしてモスクワ大学が合同で行い、粘土板やしっくいの壁に描かれた色褪せた壁画、巨大な門や燃えた木材の破片などを発見しましたが、ポル=バジンが建設された理由を示す物的証拠は発見されませんでした。
また、大きな謎として、このポル=バジンには人が居住していた形跡が発見されなかったのです。要塞であれば必ず守備のための軍隊が駐留するため、なんらかの居住の形跡が見つからなければ説明が付きません。
謎を解く手がかりとして、調査チームが放射性炭素による年代測定を行ったところ、ポル=バジンが建設されたのは770年から790年の間とされており、仮説の750年からは20~40年遅いことが判明しました。葛勒可汗は759年に死去していることから、彼の息子である牟羽可汗(ぼううかがん)が建設したとの仮説が立てられました。
牟羽可汗は国教としてマニ教を導入したことでも知られており、ポル=バジンはマニ教寺院として建設されたのではないかと考えられました。しかし牟羽可汗は779年に殺害されており、その際にマニ教の弾圧も発生。これによって寺院が放棄され、結局使われることがなかったと考えれば、人が居住し、生活していた痕跡が見つからないことにも説明が付きます。ただし、どれも現時点では仮説の域を出ていません。
こんな地の果てに静かに佇んでいるポル=バジンですが、先行きは好ましいものではありません。ポル=バジンは永久凍土の上に立っているのですが、地球温暖化に伴う気温の上昇で永久凍土が溶けて緩みつつあり、湖の水位も上昇しています。一説にはそうした遺跡の崩壊は80年のうちに発生するとのこと。
人類の起こした環境変化によって謎が永久に謎のままに終わってしまうのでしょうか?
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